社会を平穏に機能させていくためには様々なフィクションが用いられる。例えば責任というのも完全なフィクションであって科学的な定義はできないが、みんながその虚構を受け入れることで不毛な事実論の応酬を避けて物事を前に進めていける。しかし科学が見えなかった構造を可視化すればするほど、こういう社会的役割を持ったフィクションや規範は嘘じゃないかと言って拒絶されやすくなる。その時に、いやいやこういうフィクションは社会のために必要なんだとみんなに納得してもらう事が可能なのか。それともそのフィクションはもう捨てちゃって新しく科学に矛盾しない規範を考えるのか。結局のところこれは科学と倫理の力関係という結構深刻な話になってくる。倫理的な規範を正当化するのは「機能(メリット)」なのか「事実性(有根拠性)」なのか。これは言い換えれば、規範を成立させるのは大衆の合意なのか、証明力と権威を有したエリートたちの力なのかということでもある。科学とお金と政治の結合というのは無敵の権威と無限の利益構造を創り出し、一部の誰かのための恣意的な規範を強制するとんでもないディストピアにもなりうる。陰謀論者と言われる人たちは、学術の世界では相互検証という透明性がもはや機能しておらず、既に世界はそうなっているとも言う。自分も米国の政治と科学の関係史を書いた本を読んだことがあるが、なかなか恐ろしい話が満載でした。
努力「出来る人」と「出来ない人」に二分する事自体がナンセンスだと思います 「どれだけ努力出来るか」テストで100点が取れる人もいれば30点しか取れない人もいる しかし 以前は100点だった人があるきっかけで50点になったり 以前は20点だった人が今は70点取れる様になったり などという事もあるはずです 「なにがきっかけで努力出来る様になるのか」「努力する意欲を起こさせるにはどうすれば」 答は一つではないはずです
アメリカの価値観を日本に植え付けられたから、日本の社会保障が少ないと思う。フランスの社会保障を日本に取り入れたらかなりプライベートが充実出来ると思います。仕事は人生を犠牲にしてまで働く事ではないです。お金を稼ぐ為の方法です。
「動画をもっと見やすくしてほしい」などの意見も大歓迎ですとのことで要望です。フルテロップにするのであれば音声に合わせる表示では文字起こしする意味がないので今後は一文章単位で表示するように変更して欲しいです。
努力は環境に左右されると考えます。能力はその次だと思いますけどねぇ。運が良ければ分かり易く教わる事が出来て色々な事に気が付ける環境にいる事が出来る。運が悪ければ悪いほど、どんどん必要素材が欠けていくということだと思います。
努力と言うからおかしいんだよね。「努力=最善」を行ったか?って考えないとならない 最善でない積み重ねは無意味だろうし、本人は努力した、と言っていても、それは的外れかもしれない。 最善かどうか?最善を追求したか?もうすでに成功した人からの助言を聞くことほど最善の方法は無いだろうけど、こういう最善の方法をしていないとしたら、とても努力をしているとは言えないからね。
努力だけではどうにもならないし、運だけでもどうにもならない。配られたカード(=運要素)を変えることは出来ないが、配られたカードをどう使うか(=努力)は自分で決められる。と、思えば運と努力どっちの要素も入って良いとこ取りで精神衛生上良いと思います。一番勿体ないのはこういう答えのないことであれこれ悩むことだと思います。
岡田さんは物事の本質を外れて、極論に走ってしまう事が多いですよね。「Aという事柄には、今までBという要素は関係ないと思われていたが、実はBという要素がそれなりに関与している事が証明された」という事実を「Aという事柄には、今までBという要素は関係ないと思われていたが、実はBという要素のみでAという事柄が完全に決定される事が解った」みたいな曲解をしてしまう。で、「それは違うよ?」と間違いを正してあげても、そういう意見は「関与」というレベルの事さえ否定しているかのようにしか捉えない。 数値で例えるなら、事実は「30」なのに、岡田さんは「100」だと思い込んでしまい、「100というのは間違いで、正しくは30だよ」と教えてあげても、その意見を「0だと言っている」みたいに捉えてしまい「関与が証明されているのだから0というのは間違いだ」と笑い飛ばす。 岡田さんは頭悪くないはずなのに、この0か100かで曲解してしまう傾向は何なんでしょうね?
自分の勉強の必要性はシンプルに「使うから」ですね。当方は技術職なので累積で効いてくること、学校の知識だけでは全然足りないことを実感しています・・・。技術職以外の職どころか、日常生活でも同じではないでしょうか。「勉強は社会で使えない」という大人は知識も使い方も知らないだけという認識です。
優生思想はひとつの結論や理想になり得るけど弱者がいないと上に乗っかれる人もいなくなるから社会目線で優生思想はこの先も採用されないだろうね集団や個人みたいにある程度までの規模なら部分的に優生的になってるしこれが人々の本音であり、生物として本能的、種族の遺伝子の存在意義として正しき形よね
行動に着手する以前の話ですよ。対象について真摯に向き合っているか、侮っていないか、が分水嶺になります。 大切にしているからこそ、大事だと理解しているからこそ情熱を傾けて努力出来るものなのです。 他方で、中にはゲーム間隔でサクッと済ませてしまう人もいます。むしろ複雑に考えすぎて腰が重くなることもあるので、バランスが難しいですね。 元幹部候補生学校長の池太郎さんが行動指針に掲げていた「諦めない 侮らない 欺かない」というものがありますが、このような気構えで物事に立ち向かえば容易に努力を継続できるのではないでしょうか。
高学歴=努力できた実績があるね。
まあ教育ママに、勉強させられたというタイプもいる。
さすがに東大は、そのタイプだと入れない・・・
社会を平穏に機能させていくためには様々なフィクションが用いられる。例えば責任というのも完全なフィクションであって科学的な定義はできないが、みんながその虚構を受け入れることで不毛な事実論の応酬を避けて物事を前に進めていける。しかし科学が見えなかった構造を可視化すればするほど、こういう社会的役割を持ったフィクションや規範は嘘じゃないかと言って拒絶されやすくなる。その時に、いやいやこういうフィクションは社会のために必要なんだとみんなに納得してもらう事が可能なのか。それともそのフィクションはもう捨てちゃって新しく科学に矛盾しない規範を考えるのか。結局のところこれは科学と倫理の力関係という結構深刻な話になってくる。倫理的な規範を正当化するのは「機能(メリット)」なのか「事実性(有根拠性)」なのか。これは言い換えれば、規範を成立させるのは大衆の合意なのか、証明力と権威を有したエリートたちの力なのかということでもある。
科学とお金と政治の結合というのは無敵の権威と無限の利益構造を創り出し、一部の誰かのための恣意的な規範を強制するとんでもないディストピアにもなりうる。陰謀論者と言われる人たちは、学術の世界では相互検証という透明性がもはや機能しておらず、既に世界はそうなっているとも言う。自分も米国の政治と科学の関係史を書いた本を読んだことがあるが、なかなか恐ろしい話が満載でした。
努力「出来る人」と「出来ない人」に二分する事自体がナンセンスだと思います 「どれだけ努力出来るか」テストで
100点が取れる人もいれば30点しか取れない人もいる しかし 以前は100点だった人があるきっかけで50点に
なったり 以前は20点だった人が今は70点取れる様になったり などという事もあるはずです 「なにがきっかけで
努力出来る様になるのか」「努力する意欲を起こさせるにはどうすれば」 答は一つではないはずです
たまに塾行っても同調圧力に気が付かずに勉強しないサイコパスいるよね(俺)
アメリカの価値観を日本に植え付けられたから、日本の社会保障が少ないと思う。フランスの社会保障を日本に取り入れたらかなりプライベートが充実出来ると思います。仕事は人生を犠牲にしてまで働く事ではないです。お金を稼ぐ為の方法です。
フランスは移民まみれでフランス人のほうが少ないからイスラムとか黒人が運が大事とか言っちゃう。ドイツも同じ
俺が努力しないのも運だったのか
実力皆無なのにFIRE達成できたので私はめっちゃ運がいいです。
世の中、コネ 金 見た目が全て!
「動画をもっと見やすくしてほしい」などの意見も大歓迎ですとのことで要望です。フルテロップにするのであれば音声に合わせる表示では文字起こしする意味がないので今後は一文章単位で表示するように変更して欲しいです。
5:48 女叩きやツイフェミ、ネトウヨが当てはまるな。
努力は環境に左右されると考えます。能力はその次だと思いますけどねぇ。
運が良ければ分かり易く教わる事が出来て色々な事に気が付ける環境にいる事が出来る。運が悪ければ悪いほど、どんどん必要素材が欠けていくということだと思います。
子供の頃に分数をマスターしとけばよかった、とか、子供の頃に英語を勉強しておけばよかった。っと思ってるよ、儂と言う50過ぎのおっさんは。
このコメントは岡田先生の独自のものだと思う。
「焦燥感」などという高尚な言葉を扱えている時点で何も問題ないので放っておいて大丈夫でしょう。
努力と言うからおかしいんだよね。
「努力=最善」を行ったか?って考えないとならない
最善でない積み重ねは無意味だろうし、
本人は努力した、と言っていても、それは的外れかもしれない。
最善かどうか?最善を追求したか?
もうすでに成功した人からの助言を聞くことほど最善の方法は無いだろうけど、
こういう最善の方法をしていないとしたら、
とても努力をしているとは言えないからね。
三国志、横山光輝の漫画は、下手な絵でがっかりしてしまいましたが、小説読むきっかけにはなりました。
努力だけではどうにもならないし、運だけでもどうにもならない。配られたカード(=運要素)を変えることは出来ないが、配られたカードをどう使うか(=努力)は自分で決められる。と、思えば運と努力どっちの要素も入って良いとこ取りで精神衛生上良いと思います。一番勿体ないのはこういう答えのないことであれこれ悩むことだと思います。
「僕は努力しない事の方が難しい。という事が解ったんだ」
ポール.マッカートニー
10代にもっと勉強しとけばよかったて20代に言って30代になったら20代の頃もっと勉強しとけばよかったって死ぬまで同じこと言ってると思うワイ。
五次すご
岡田さんは物事の本質を外れて、極論に走ってしまう事が多いですよね。
「Aという事柄には、今までBという要素は関係ないと思われていたが、実はBという要素がそれなりに関与している事が証明された」という事実を
「Aという事柄には、今までBという要素は関係ないと思われていたが、実はBという要素のみでAという事柄が完全に決定される事が解った」みたいな曲解をしてしまう。
で、「それは違うよ?」と間違いを正してあげても、そういう意見は「関与」というレベルの事さえ否定しているかのようにしか捉えない。
数値で例えるなら、事実は「30」なのに、岡田さんは「100」だと思い込んでしまい、
「100というのは間違いで、正しくは30だよ」と教えてあげても、その意見を「0だと言っている」みたいに捉えてしまい
「関与が証明されているのだから0というのは間違いだ」と笑い飛ばす。
岡田さんは頭悪くないはずなのに、この0か100かで曲解してしまう傾向は何なんでしょうね?
自分の勉強の必要性はシンプルに「使うから」ですね。
当方は技術職なので累積で効いてくること、学校の知識だけでは全然足りないことを実感しています・・・。
技術職以外の職どころか、日常生活でも同じではないでしょうか。
「勉強は社会で使えない」という大人は知識も使い方も知らないだけという認識です。
子供が蝶を追ううちに山のてっぺんまで登る。大人はよくこんな所まで来たねと褒める。けれど子供は褒められたことに戸惑いこう思う、僕は蝶を追っていただけなのに。
優生思想はひとつの結論や理想になり得るけど
弱者がいないと上に乗っかれる人もいなくなるから社会目線で優生思想はこの先も採用されないだろうね
集団や個人みたいにある程度までの規模なら部分的に優生的になってるしこれが人々の本音であり、生物として本能的、種族の遺伝子の存在意義として正しき形よね
女は顔が良ければ何でも許される
学歴要らんぞ〜
努力出来る人+マゾヒストは、どんな状態になっても毎日を楽しめるんですよ。
ただ学生の時に努力して成功した経験を持っていないと成人しても全く努力しない楽しめない人になりますよ
確かに。塾ね。
行動に着手する以前の話ですよ。対象について真摯に向き合っているか、侮っていないか、が分水嶺になります。
大切にしているからこそ、大事だと理解しているからこそ情熱を傾けて努力出来るものなのです。
他方で、中にはゲーム間隔でサクッと済ませてしまう人もいます。むしろ複雑に考えすぎて腰が重くなることもあるので、バランスが難しいですね。
元幹部候補生学校長の池太郎さんが行動指針に掲げていた「諦めない 侮らない 欺かない」というものがありますが、このような気構えで物事に立ち向かえば容易に努力を継続できるのではないでしょうか。