仮説①を推します。決まりきった毎日に嫌気が差して、変化を投じたかったんだと思う。逃したのは誰かと聞かれて名乗り出なかったのも、村人たちに暴動を起こして欲しかったのかも。その後ユミルはフリッツ王に愛されたいという呪縛に縛られるが、進撃の巨人だけ何者にも束縛されないのは、自由意志を貫いてほしいという自分の願望を託したのかも。
ユミルは奴隷である自分が嫌いで、そんな世界のことも嫌いで、その象徴の豚を見ていられず、思わず逃したんだと思う。かと言って王に一矢報いるとか、それほどの力もなくて、そういうところがまたユミルの弱さで、そういう人間の、慈悲とか美しさと、愚かさの両面性を体現してるんだと思う。
タキチャンネルさんの進撃シリーズを楽しく拝見しております。今回の解説には少々違和感を覚えましたので、コメントを入れさせていただきます。(非常に長くなりました。すみません。) ●ユミルの罪 「ユミルに罪があった」というような解釈がされているようですが、これは作者の意図とは異なるように思います。 具体的には、仲間たちを苦しめるとか、豚を野に放しても生きていけない、とかの解釈です。 小生は、作者の意図は、「自由を求めること」、「生きること」、「闘うこと」の関連にあると考えております。 この視点で見ますと、ユミルが豚を逃したのは、「生き物は自由であるべき」という、本作品の根本に発したものであったと思います。 仲間のどうこうとか、罪がどうこう、とは次元の異なる理由です。 つまり、この視点では、野に放たれて死ぬことも必要(自由を求めるなら払うべき代償)ということです。これはエレンの行動(判断)にも繋がっています。 ちなみに、「豚における檻」は「人間における壁」であり、それを解放した(穴を開けた)のは、ユミル(巨人)としてつながっています。 檻の中の動物(壁の中の人間、奴隷)は自分が不自由であることに気づきません。大きな力がそれを気付かせてくれるのです。 ●仲間たちの行動 仲間たちが最初は口をつぐんでいたことを、「いい人たちだった」、「そんな人たちに害が及ぶようなことをしたユミルは悪人だったというような解釈がありましたが、これも作者の意図とは異なるように思います。 小生は、仲間たちが口をつぐんでいたのは、「自由を求める心」が仲間たちにも芽生えかけていたのだろうと考えています。 つまり、豚を逃したユミルのことを通告しないことにより、「自由を求めることは当然」と暗に主張しているという理解です。 それは、「支配者の思い通りにはならない」ということを奴隷たちが意識し始めたということです。 ユミルが自分から手を挙げなかったのは、罰が怖いわけではなく、「皆が同じ気持ち(自由を求めている)」と信じていたからだと思います。 つまり、全員の目がくり抜かれたとしても、それは「奴隷たち全員が、非常に小さな自由を得た(支配者に抵抗して闘った)」証になると信じていたと思います。 しかし、王が「全員の目玉を」と脅したことで、全員の意識が崩れてしまいました。 結果として、仲間たちは支配者の思い通りに、まさしく家畜がごとく、奴隷であるままに、ユミルを指さしてしまいます。 これが作者の意図の一つで、「大きな力の前で闘い続けることの困難さ」を表していると思います。 この時のユミルの絶望は非常に大きかったと思います。 ●その後のユミル ユミルが逃げていくところでも、「生きたいという気持ちがあった」というような説明をユミルが残念というような風に説明していますが、これにも異論があります。 作者の意図は、「自由を求める」=「生きる」=「闘う」なのですから、目玉をくり抜かれながら、生きようとして逃げるユミルの姿は、「自由を求めることの困難さ」を象徴する非常に重要な行動だと考えます。 ただし、ここからが作品を非常に重厚なものとしているのですが、ユミルは「自由を求めて闘い」、大きな樹までたどりつき、非常に大きな力を手にします。 しかし、ユミルはこの力を支配者に向けて使用しませんでした。ここが作者の葛藤なのだと思いますが、一つには「(ユミルの場合王への)愛」、もう一つは、染みついてしまった「奴隷根性(←仲間たちがユミルを売った理由)」にまで抵抗することがえきるのか?という根本的な問いかけです。 ユミルは闘い続けることには非常に大きな犠牲(目玉くり抜き)が伴うことを知りました。 さらに、巨人の力を王に向ければ、さらに闘い続けることになり、さらに大きな犠牲を伴うことに臆してしまったのだと思います。 結局は、「長いものには巻かれろ」で王の言うとおりに他国を破壊することになります。これは「自分で考えること」を止めたということです。 エレンの父が「こんな犠牲を払うなら自由は求めなかった」というのは、まさにこの時のユミルの判断でもあり、逆にいうとエレンはそうはしなかった、ということです。●作品の問いかけ ユミルとエレンの違い、これが本作品の本質的な問いかけにかかわっていると思います。 「自由を求める」、「生きる」、「闘う(他者を殺すこともある)」、「愛(平和)」は両立するのか?ということです。 作者の回答は、「永遠に回り続ける」だと思います。 つまり、エレンが「力を得て、自由を求め、自分が死んでも、他社を殺してでも、闘い続けて到達した平和でも、人間が2人以上いれば、必ず拘束を生じ、支配構造が構築され、それは自由ではなくなる」ということです。 この意味で、「始まりは?」とのエレンの問いに豚の絵が描かれていたのは、「支配構造が始まったとき」です。 人間に知恵がついて、動物を飼うようになった、他人を使うようになった(奴隷)時点が、すべての始まり(人間が自由でなくなった)ということになります。 本作品は現代への警鐘にもなっていると思います。「社会の中で他人とつながっている人間は本当に自由なのだろうか」、「本当の自由とは何なのか」ということです。 そして、作者は「本当の自由、究極の自由は、自分以外のすべてのものと闘うこと(他者を殺すことも含めて)」であり、 「人間が2人以上いる限り、永遠に到達することはできない」という重い結論を提示しているのではないでしょうか。 大国の様子を伺う小国はもちろん、国の法律に従う国民、社会で経済活動をする経営者、会社で働くサラリーマン、国の仕組みで働く公務員、学校に通う学生、友達とつるむ若者、親と暮らす子供、漫画を描いて雑誌発表する漫画家、すべての人間に「自由とは?」を問う、非常に重厚な作品だと考えています。 TVアニメを見て、YouTube解説動画を見て、もう一度TVアニメを一通り見直した程度の者の意見で恐縮いたします。(TVアニメは完結していませんし。。。) 今後のYouTubeでのご活躍を楽しみにしております。
豚を逃すという行為に、ユミルからかなりの好奇心をかんじました。私の見解ですが、かなり直感的に逃したのでは?豚たちは(自分が野生で生きていけないことを知らないので)逃げたがっている。なら、逃して自由にしてやろう。それ以外のことは考えていないと思います。でも、潜在的にこの考えに至る理由はそれが説明してくださったことだと思います。
どの時点でフリッツ王を愛していたんだろう。もし、豚を逃した時点で愛していたのだとしたら、フリッツ王との係わりを望んで豚を逃したのかも。それが例え、鞭をうつ行為だったとしても、それでもよかった。それほどユミルの思いが深かったとしたら、二千年思いに囚われていたのも納得できる。 だからフリッツ王から引き抜かれた舌は再生しなかった。ユミルにとって、フリッツ王が初めてユミルに施した繋がりだから。舌を再生させなかった。一時的でもフリッツ王が舌を引き抜いた姿をユミルに望んだから。
エレンの回想で豚が出ても別に不自然には感じなくて。それって一つには進撃の巨人の代名詞たる紅蓮の弓矢に豚ってワードが出てたりして豚が漠然と作品全体のシンボルみたいになってることがあると思うんだよ。そこに意味を持たせる先生はやはりすごい。因みにユミルの豚逃しは、エレンが自由を求めて人類を皆殺しにするのと同じく理由を考えても仕方がない、ある意味そういう現象だと思ってる。
ユミルは優しいから’不自由’な豚を逃したのでは?まだ幼く’無知’だったので罪(代償)を考えずに豚を逃した。→ライナーやエレンと同じで幼い時に良かれと思ってやったこと。 エレンがマーレで’左目’を潰し’左足’を負傷させたのは’自由’の代償としてだと思う。 ユミルが’自由’の代償として’左目’と’左足’を負傷したのと同じだと思います。
なぜ豚を逃がしたのか?はよく分からないのですが、逃がすとどうなるか?までは、10歳の子供には想像できなかったのかな?とも思います。(もしその代償が分かっていてもなおやったなら、また話は変わりますが)理由の如何を問わず、その選択によって代償を受けてしまった(因果応報)という事かなと思います。
どこからが始まりか?それはエレンが未来を見てしまった時点か、それともユミルが豚を逃がすという選択をした時か、、、どこにせよ、エレンもユミルも自由意志で選択したことの結果だ、、だからどこでも良いという事ですかね。
深い物語なだけに前提に自分の思い込みを据える解説が多いから抵抗を覚える事が多かったけど、この人は一つの表現に対して疑問符で終わらせるから不快感ないし、考察を前提にして次の考察へって繰り返して論理が飛躍する事もないから最後まで気分良く見れた。
豚を逃した理由、タキさんが説明してたので大方皆同じ考えなのかなーと思います!僕はもうひとつ付け足すなら、見てほしいとか、かまって欲しいとか、気づいて欲しいとか、子供だからそいう年頃なのかなーとか思いました、学校でヤンチャしてた子って、割と家族から見てもらえてもらえてないから、学校とか学校の外で悪いことしてる子がほとんどらしいです、人によっては、憎まれたりする事で、存在意義を見出す人もいるみたいです
家畜の安寧 虚偽の繁栄 「家畜の安寧を享受する」という言葉があります(現状に甘んじるという意味)進撃の巨人という作品全体に一貫したイメージのある言葉ですね 屍踏み越えて進む意思(調査兵団?地ならし?)を嗤う豚よ(調査兵団を軽んじる壁内人類、またはエレンと敵対する人類全て)家畜の安寧(現状に甘んじること)虚偽の繁栄(巨人?壁内人類?)
笑うぶたよ
ユミルちゃんがブタを逃した理由…
ヴィーガンに目覚めた!(ヴィーガンの始祖)
または、トリュフを食べたかったから!
仮説①を推します。決まりきった毎日に嫌気が差して、変化を投じたかったんだと思う。逃したのは誰かと聞かれて名乗り出なかったのも、村人たちに暴動を起こして欲しかったのかも。
その後ユミルはフリッツ王に愛されたいという呪縛に縛られるが、進撃の巨人だけ何者にも束縛されないのは、自由意志を貫いてほしいという自分の願望を託したのかも。
ユミルは奴隷である自分が嫌いで、そんな世界のことも嫌いで、その象徴の豚を見ていられず、思わず逃したんだと思う。かと言って王に一矢報いるとか、それほどの力もなくて、そういうところがまたユミルの弱さで、そういう人間の、慈悲とか美しさと、愚かさの両面性を体現してるんだと思う。
サムネがジョンウィック
タキチャンネルさんの進撃シリーズを楽しく拝見しております。今回の解説には少々違和感を覚えましたので、コメントを入れさせていただきます。(非常に長くなりました。すみません。)
●ユミルの罪
「ユミルに罪があった」というような解釈がされているようですが、これは作者の意図とは異なるように思います。
具体的には、仲間たちを苦しめるとか、豚を野に放しても生きていけない、とかの解釈です。
小生は、作者の意図は、「自由を求めること」、「生きること」、「闘うこと」の関連にあると考えております。
この視点で見ますと、ユミルが豚を逃したのは、「生き物は自由であるべき」という、本作品の根本に発したものであったと思います。
仲間のどうこうとか、罪がどうこう、とは次元の異なる理由です。
つまり、この視点では、野に放たれて死ぬことも必要(自由を求めるなら払うべき代償)ということです。これはエレンの行動(判断)にも繋がっています。
ちなみに、「豚における檻」は「人間における壁」であり、それを解放した(穴を開けた)のは、ユミル(巨人)としてつながっています。
檻の中の動物(壁の中の人間、奴隷)は自分が不自由であることに気づきません。大きな力がそれを気付かせてくれるのです。
●仲間たちの行動
仲間たちが最初は口をつぐんでいたことを、「いい人たちだった」、「そんな人たちに害が及ぶようなことをしたユミルは悪人だったというような解釈がありましたが、これも作者の意図とは異なるように思います。
小生は、仲間たちが口をつぐんでいたのは、「自由を求める心」が仲間たちにも芽生えかけていたのだろうと考えています。
つまり、豚を逃したユミルのことを通告しないことにより、「自由を求めることは当然」と暗に主張しているという理解です。
それは、「支配者の思い通りにはならない」ということを奴隷たちが意識し始めたということです。
ユミルが自分から手を挙げなかったのは、罰が怖いわけではなく、「皆が同じ気持ち(自由を求めている)」と信じていたからだと思います。
つまり、全員の目がくり抜かれたとしても、それは「奴隷たち全員が、非常に小さな自由を得た(支配者に抵抗して闘った)」証になると信じていたと思います。
しかし、王が「全員の目玉を」と脅したことで、全員の意識が崩れてしまいました。
結果として、仲間たちは支配者の思い通りに、まさしく家畜がごとく、奴隷であるままに、ユミルを指さしてしまいます。
これが作者の意図の一つで、「大きな力の前で闘い続けることの困難さ」を表していると思います。
この時のユミルの絶望は非常に大きかったと思います。
●その後のユミル
ユミルが逃げていくところでも、「生きたいという気持ちがあった」というような説明をユミルが残念というような風に説明していますが、これにも異論があります。
作者の意図は、「自由を求める」=「生きる」=「闘う」なのですから、目玉をくり抜かれながら、生きようとして逃げるユミルの姿は、「自由を求めることの困難さ」を象徴する非常に重要な行動だと考えます。
ただし、ここからが作品を非常に重厚なものとしているのですが、ユミルは「自由を求めて闘い」、大きな樹までたどりつき、非常に大きな力を手にします。
しかし、ユミルはこの力を支配者に向けて使用しませんでした。ここが作者の葛藤なのだと思いますが、一つには「(ユミルの場合王への)愛」、もう一つは、染みついてしまった「奴隷根性(←仲間たちがユミルを売った理由)」にまで抵抗することがえきるのか?という根本的な問いかけです。
ユミルは闘い続けることには非常に大きな犠牲(目玉くり抜き)が伴うことを知りました。
さらに、巨人の力を王に向ければ、さらに闘い続けることになり、さらに大きな犠牲を伴うことに臆してしまったのだと思います。
結局は、「長いものには巻かれろ」で王の言うとおりに他国を破壊することになります。これは「自分で考えること」を止めたということです。
エレンの父が「こんな犠牲を払うなら自由は求めなかった」というのは、まさにこの時のユミルの判断でもあり、逆にいうとエレンはそうはしなかった、ということです。
●作品の問いかけ
ユミルとエレンの違い、これが本作品の本質的な問いかけにかかわっていると思います。
「自由を求める」、「生きる」、「闘う(他者を殺すこともある)」、「愛(平和)」は両立するのか?ということです。
作者の回答は、「永遠に回り続ける」だと思います。
つまり、エレンが「力を得て、自由を求め、自分が死んでも、他社を殺してでも、闘い続けて到達した平和でも、人間が2人以上いれば、必ず拘束を生じ、支配構造が構築され、それは自由ではなくなる」ということです。
この意味で、「始まりは?」とのエレンの問いに豚の絵が描かれていたのは、「支配構造が始まったとき」です。
人間に知恵がついて、動物を飼うようになった、他人を使うようになった(奴隷)時点が、すべての始まり(人間が自由でなくなった)ということになります。
本作品は現代への警鐘にもなっていると思います。「社会の中で他人とつながっている人間は本当に自由なのだろうか」、「本当の自由とは何なのか」ということです。
そして、作者は「本当の自由、究極の自由は、自分以外のすべてのものと闘うこと(他者を殺すことも含めて)」であり、
「人間が2人以上いる限り、永遠に到達することはできない」という重い結論を提示しているのではないでしょうか。
大国の様子を伺う小国はもちろん、国の法律に従う国民、社会で経済活動をする経営者、会社で働くサラリーマン、国の仕組みで働く公務員、学校に通う学生、友達とつるむ若者、親と暮らす子供、漫画を描いて雑誌発表する漫画家、すべての人間に「自由とは?」を問う、非常に重厚な作品だと考えています。
TVアニメを見て、YouTube解説動画を見て、もう一度TVアニメを一通り見直した程度の者の意見で恐縮いたします。(TVアニメは完結していませんし。。。)
今後のYouTubeでのご活躍を楽しみにしております。
エレンが世界を平らにしたかったのと一緒で
なんでかわからないけどどうしてもやりたかったんだよ笑笑
「豚や人を、柵や檻、壁の外に出す(あるいは出る)ことで、必ずしも自由になる(なれる)わけではない」ということを諫山先生は表したかったんじゃないかな?
豚を逃すという行為に、ユミルからかなりの好奇心をかんじました。私の見解ですが、かなり直感的に逃したのでは?豚たちは(自分が野生で生きていけないことを知らないので)逃げたがっている。なら、逃して自由にしてやろう。それ以外のことは考えていないと思います。でも、潜在的にこの考えに至る理由はそれが説明してくださったことだと思います。
どの時点でフリッツ王を愛していたんだろう。もし、豚を逃した時点で愛していたのだとしたら、フリッツ王との係わりを望んで豚を逃したのかも。それが例え、鞭をうつ行為だったとしても、それでもよかった。それほどユミルの思いが深かったとしたら、二千年思いに囚われていたのも納得できる。
だからフリッツ王から引き抜かれた舌は再生しなかった。ユミルにとって、フリッツ王が初めてユミルに施した繋がりだから。舌を再生させなかった。一時的でもフリッツ王が舌を引き抜いた姿をユミルに望んだから。
ユミルは奴隷・家畜を守るために
自分が悪者を買って出て
エレンと同じように皆んなに自分を殺す様に仕向けたんじゃないかなあなんて思った次第です。
エレンの回想で豚が出ても別に不自然には感じなくて。それって一つには進撃の巨人の代名詞たる紅蓮の弓矢に豚ってワードが出てたりして豚が漠然と作品全体のシンボルみたいになってることがあると思うんだよ。そこに意味を持たせる先生はやはりすごい。
因みにユミルの豚逃しは、エレンが自由を求めて人類を皆殺しにするのと同じく理由を考えても仕方がない、ある意味そういう現象だと思ってる。
ユミルは優しいから’不自由’な豚を逃したのでは?まだ幼く’無知’だったので罪(代償)を考えずに豚を逃した。→ライナーやエレンと同じで幼い時に良かれと思ってやったこと。
エレンがマーレで’左目’を潰し’左足’を負傷させたのは’自由’の代償としてだと思う。
ユミルが’自由’の代償として’左目’と’左足’を負傷したのと同じだと思います。
エレンの「自由になりたい」って意思がユミルに影響したとかは無い、、よね
いつもめちゃくちゃ面白くみてます!
タキさんが作品を考察するときに、考えてることとか、感じることとか、感じてきたこと、考察の楽しみ方みたいな、考察自体の考察をぜひ聞いてみたいです!!!
逃す、のがす、にがす、どちらも読み方としては間違いではないけど、豚を○すの場合ニュアンスとして「にがす」では?「のがす」「のがす」連呼してますが・・・
ユミルちゃんの物語もあったら面白そうですね
スーパーコネコネタイムwww
タキさんタマフルのヘビーリスナーですね
なぜ豚を逃がしたのか?はよく分からないのですが、逃がすとどうなるか?までは、10歳の子供には想像できなかったのかな?とも思います。(もしその代償が分かっていてもなおやったなら、また話は変わりますが)理由の如何を問わず、その選択によって代償を受けてしまった(因果応報)という事かなと思います。
どこからが始まりか?それはエレンが未来を見てしまった時点か、それともユミルが豚を逃がすという選択をした時か、、、どこにせよ、エレンもユミルも自由意志で選択したことの結果だ、、だからどこでも良いという事ですかね。
この作品において豚や家畜は不自由の象徴だからね
豚も人も同じに見えて自由にしたかったのでは?
タキさん銀の匙読んでたんですね!いいですよね、、
純粋に自由を知りたかったんだと思います。
始祖ユミルってヒストリアとユミルの2人にすごく似てる気がする……。
いつぞやのヒストリアみたいにいい子になりたかったから豚を逃がしたのかなって思ったし、人のために尽くして死んでいくのとかユミルそっくり。
タキさんの考察見ると、話怖くても安心する
紅蓮の弓矢、男女混合コーラスの荘厳な鎮魂歌ver.でアニメ最終話に流して欲しい。
屍踏み越えて 進む意思を嗤う豚よ
深い物語なだけに前提に自分の思い込みを据える解説が多いから抵抗を覚える事が多かったけど、この人は一つの表現に対して疑問符で終わらせるから不快感ないし、考察を前提にして次の考察へって繰り返して論理が飛躍する事もないから最後まで気分良く見れた。
ユミル可愛いよね顔
今日も豚逃がしてきた。
進撃の巨人はユミルちゃんが豚を逃してから失った自由の心を体現したものなのかな。いつか私を許して解放してくれるかもと淡い思いを乗せて
道で豚に支持されてた
豚を逃した理由、タキさんが説明してたので大方皆同じ考えなのかなーと思います!僕はもうひとつ付け足すなら、見てほしいとか、かまって欲しいとか、気づいて欲しいとか、子供だからそいう年頃なのかなーとか思いました、学校でヤンチャしてた子って、割と家族から見てもらえてもらえてないから、学校とか学校の外で悪いことしてる子がほとんどらしいです、
人によっては、憎まれたりする事で、存在意義を見出す人もいるみたいです
わんちゃん豚が病気持ちだったのに気づいたんじゃね?
家畜の安寧 虚偽の繁栄
「家畜の安寧を享受する」という言葉があります(現状に甘んじるという意味)
進撃の巨人という作品全体に一貫したイメージのある言葉ですね
屍踏み越えて進む意思(調査兵団?地ならし?)
を嗤う豚よ(調査兵団を軽んじる壁内人類、またはエレンと敵対する人類全て)
家畜の安寧(現状に甘んじること)
虚偽の繁栄(巨人?壁内人類?)
やっぱ罪悪感なのかなあ………?
屍踏み越えて進む意志を笑ったからだろ
タキさん、諫山先生のシリアスにギャグぶっ込む癖うつってて草
「お前も自由の奴隷か…」って思った
pixivで豚に乗って走り回ろうとしたらひっくり返ってそのままも逃げられたイラストあって笑ったな