(変柱さんのコメント返信の追記です)私に鬼殺隊の推しが我妻善逸くんと時透無一郎くんの2人なので無一郎くんと善逸くんが一緒に戦えないのが悲しいですがアニメで柱合会議の次に無一郎くんを見れるのが嬉しいです。しかも無一郎くんが戦ってるシーンはアニメ初なので楽しみに一年待ちたいと思います♪
戦闘シーンの迫力、人間と鬼になった元人間の葛藤、苦しみ等見ていた私も苦しかったです。刀鍛冶、柱稽古編は連続で放送して今年の10月から3クールと予想します。そしていつも期待以上の主題歌!次に歌われる方のプレッシャーもハンパないと思いますが、期待しております!
「全部嘘だよ」 「仲良くしよう お互いに罵りあったら駄目だ この世でたった二人の兄妹なんだから 」「仲直り出来たかな」 慈悲深く優しい炭治郎のこの言葉、重みがあって深みがある。 「遊郭編」は炭治郎・禰豆子と妓夫太郎・堕姫(梅)の兄妹対比が良く描かれていて、色々と考えさせられる。 Aimerのエンディング「朝がくる」の歌詞にある「君の行く場所に 光あれと祈った 全ての心のため」妓夫太郎と堕姫(梅)に届きますように。
稲荷寿司は稲荷信仰に繋がる。吉原では、お稲荷様を信仰してた。その街の四角には、榎本稲荷、明石稲荷、開運稲荷、九郎助稲荷(黒助と当て字される事もある。)が奉られ、大門の外、見返り柳の反対側には吉德稲荷が奉られていた。(今は弁財天も加えて、吉原神社として一つに合祀されています。)おそらく、あんな妓夫太郎でも最低限の信心を持っていた事の象徴が稲荷寿司であり、梅の不幸でそのわずかな信心さえ崩れ去った。それがあの崩れた稲荷寿司だと思う。でも、崩れた稲荷寿司が梅の象徴と言うのも、良いですね。多重解釈って面白いですし。ちなみに、落語の「乙女饅頭」、「明烏」は、吉原の稲荷信仰が解る、良い御噺です。
妓夫太郎が黒焦げになった妹の梅を抱きしめて天を仰ぎながら「俺から取り立てるな!何も与えなかったくせに!俺から取り立てるのか!」って神や仏を憎むシーンが印象に残った。あれって、炭治郎と禰豆子が雪の中で話してた「貧乏だったら不幸なの?幸せじゃないの?何で勝手に決めるの?前を向こうよ。」っていう件のシーンとの対比になってたんだね。見方を変えると、妓夫太郎って神様から何も与えられなかったわけではないと自分は思うんだ。なぜなら、アニメでは妓夫太郎が「何も与えなかったくせに!」って泣き叫んでたセリフと同時に、お茶碗2,3杯分ぐらいは包んである白飯の絵も映っていたから。妓夫太郎達は遊郭の最下層である羅生門河岸の生まれで、子どもの頃は虫や鼠を食べて育った。貧乏だった(子どもにお金をかけられなかった)なら、白飯なんて高価な物も食べられなかったはず。それに、周りがたじろぐほど綺麗な容姿の妹・梅が生まれて彼自身の劣等感も吹き飛ばされたし、喧嘩の強さに気づいた妓夫太郎は取り立て屋という自立した生活を送って生きていくために必要な仕事も与えられ、取り立て屋の仕事をしていく中で妓夫太郎は自身の醜さも誇らしく思えるほどに気持ちも変わった。周りの人達に比べたら裕福な暮らしでは無かったかもしれないけど、ある程度の自己肯定感を得られつつ、兄妹分の白飯が食べられるぐらいの生活を送れるほどに人生は良くなっていたわけで…。これらを考えると、妓夫太郎は神様から何も与えられなかったわけじゃないと思う。でも、大切な妹の梅の一件が、それまでの神様から与えられた内容と釣り合うかと言われると、そうとも言えないと思うし、神や仏、引いては人間を憎む気持ちを持って当然な出来事だったと思う。妓夫太郎達と炭治郎達の対比で言うと、妓夫太郎は、無い物に目を向け、「後ろ向き」に物事を捉え、自分の大切なものを奪われる前に取り立てようとした。一方で、炭治郎や禰豆子は、無いなりに目の前に今ある物に目を向け、「前向き」に物事を捉え、自分や他人の大切なものを2度と失わないように護ろうとした。これこそ、妓夫太郎が心の中に飼ってる「鬼」の部分で、炭治郎達の「人間」としての心の持ち方の違いなんじゃないかな。たったこれだけの違いから、どんなに辛くて困難な出来事が起こったとしても、そのときの「正しい気持ちの持ちかた」について、『鬼滅の刃』遊郭編は教えてくれたような気がする。
鬼滅の刃 遊郭編の感想を教えて下さい
絶対むいくん推し増える病む
例え人間に戻ろうとも人間である以上、地獄にしか行けないのは事実。
食べ物を買って食べるだけでも殺生罪。虫1匹殺しても殺生罪。
人間は罪しか犯してませんからね。
梅毒の罹患の高さをあらわした江戸時代の川柳に「瘡気と自惚れのないものはいない」というものがありました
最後の宇髄の戦闘シーンはカッコ良かった!
しかし、なぜ親方様の声が変わった?
地獄で堕姫が人間の姿なのは
生まれ変わったらお兄ちゃんの妹になりたいから、妓夫太郎が地獄で最初鬼なのは
生まれ変わっても鬼になりたかったから
兄弟愛という大きな愛のことが分かったと思います。
刀鍛冶の里編楽しみですね〜!
冨岡さんと炭治郎でるんですよね?
早く見たいですねー!
堕姫が13歳になる頃にと妓夫太郎が言っていたんですよね。おそらく鬼化したのは1762年ですね。この時に堕姫が13歳になる頃に焼き殺されたのでは無いかと考えます。違ったらすいません!
堕姫ちゃんは服の色紫だと思ってたから赤は意外だった!どっちにしろ可愛かったけど
無限列車は映画なのにそれを上回る作画…
特にラストの戦闘シーンの作画は圧倒されました。
無限列車が大ヒットとなったおかげで製作費に余裕が出たのかな。何にしても最高でした。
猗窩座は黒死牟に挑んでいますし相手は指名できるんじゃないですかね
灼熱(しゃくねつ)、焦熱(しょうねつ)
(変柱さんのコメント返信の追記です)
私に鬼殺隊の推しが我妻善逸くんと時透無一郎くんの2人なので無一郎くんと善逸くんが一緒に戦えないのが悲しいですがアニメで柱合会議の次に無一郎くんを見れるのが嬉しいです。しかも無一郎くんが戦ってるシーンはアニメ初なので楽しみに一年待ちたいと思います♪
妓夫太郎と堕姫の兄弟愛にめっちゃ感動したなぁ
アニメ見てマジで妓夫太郎好きになった。お兄ちゃんカッコいいな!
原作で読んだことはあったけどやっぱりアニメは感動するなぁ
鬼滅好きすぎてたくさん絵描いてます笑
戦闘シーンの迫力、人間と鬼になった元人間の葛藤、苦しみ等見ていた私も苦しかったです。刀鍛冶、柱稽古編は連続で放送して今年の10月から3クールと予想します。そしていつも期待以上の主題歌!次に歌われる方のプレッシャーもハンパないと思いますが、期待しております!
鬼滅の刃遊郭編は良かっです
特に作画が良かったです
次の鬼滅の刃楽しみです
動画頑張ってください
「全部嘘だよ」 「仲良くしよう お互いに罵りあったら駄目だ この世でたった二人の兄妹なんだから 」「仲直り出来たかな」 慈悲深く優しい炭治郎のこの言葉、重みがあって深みがある。 「遊郭編」は炭治郎・禰豆子と妓夫太郎・堕姫(梅)の兄妹対比が良く描かれていて、色々と考えさせられる。 Aimerのエンディング「朝がくる」の歌詞にある「君の行く場所に 光あれと祈った 全ての心のため」妓夫太郎と堕姫(梅)に届きますように。
猗窩座の方が童磨より先に上弦になったっていよらんかった?
玉壺と半天狗が逆になって湯
キリスト教だと煉獄という天国と地獄の中間地帯がありますね
地獄でも二人なら最強か
稲荷寿司はめでたいものだからな、、、、それがくずれて
5:18 なるほど、荼枳尼天のイメージなんですね、そういえば九尾の狐っぽいデザインだし
梅が妓夫太郎に飛び乗った時
もらい泣きです。あんなの耐えられん
頼もしくて漢らしい柱と猗窩座、黒死牟みたいな鬼が好きだから、刀鍛冶の里編は虚無だわ。次の敵逃げ腰?というか本誌読んでた時に微妙だった。いままでの煉獄さんと宇髄さんがカッコよかった。早く無限城編見たい
大正コソコソ話で堕姫が侍の目を刺したのは妓夫太郎をバカにされたからってのをアニメでもどっかに入れて欲しかった
16:37あたりの考察違うくないかな、猗窩座は童磨より先に鬼になってるんだよね、まぁそのとき猗窩座が上弦ではなかったってことか
稲荷寿司は稲荷信仰に繋がる。
吉原では、お稲荷様を信仰してた。
その街の四角には、榎本稲荷、明石稲荷、開運稲荷、九郎助稲荷(黒助と当て字される事もある。)が奉られ、
大門の外、見返り柳の反対側には吉德稲荷が奉られていた。(今は弁財天も加えて、吉原神社として一つに合祀されています。)
おそらく、あんな妓夫太郎でも最低限の信心を持っていた事の象徴が稲荷寿司であり、梅の不幸でそのわずかな信心さえ崩れ去った。
それがあの崩れた稲荷寿司だと思う。
でも、崩れた稲荷寿司が梅の象徴と言うのも、良いですね。
多重解釈って面白いですし。
ちなみに、落語の「乙女饅頭」、「明烏」は、吉原の稲荷信仰が解る、良い御噺です。
妓夫太郎が黒焦げになった妹の梅を抱きしめて天を仰ぎながら「俺から取り立てるな!何も与えなかったくせに!俺から取り立てるのか!」って神や仏を憎むシーンが印象に残った。
あれって、炭治郎と禰豆子が雪の中で話してた「貧乏だったら不幸なの?幸せじゃないの?何で勝手に決めるの?前を向こうよ。」っていう件のシーンとの対比になってたんだね。
見方を変えると、妓夫太郎って神様から何も与えられなかったわけではないと自分は思うんだ。なぜなら、アニメでは妓夫太郎が「何も与えなかったくせに!」って泣き叫んでたセリフと同時に、お茶碗2,3杯分ぐらいは包んである白飯の絵も映っていたから。
妓夫太郎達は遊郭の最下層である羅生門河岸の生まれで、子どもの頃は虫や鼠を食べて育った。貧乏だった(子どもにお金をかけられなかった)なら、白飯なんて高価な物も食べられなかったはず。
それに、周りがたじろぐほど綺麗な容姿の妹・梅が生まれて彼自身の劣等感も吹き飛ばされたし、喧嘩の強さに気づいた妓夫太郎は取り立て屋という自立した生活を送って生きていくために必要な仕事も与えられ、取り立て屋の仕事をしていく中で妓夫太郎は自身の醜さも誇らしく思えるほどに気持ちも変わった。
周りの人達に比べたら裕福な暮らしでは無かったかもしれないけど、ある程度の自己肯定感を得られつつ、兄妹分の白飯が食べられるぐらいの生活を送れるほどに人生は良くなっていたわけで…。
これらを考えると、妓夫太郎は神様から何も与えられなかったわけじゃないと思う。でも、大切な妹の梅の一件が、それまでの神様から与えられた内容と釣り合うかと言われると、そうとも言えないと思うし、神や仏、引いては人間を憎む気持ちを持って当然な出来事だったと思う。
妓夫太郎達と炭治郎達の対比で言うと、
妓夫太郎は、無い物に目を向け、「後ろ向き」に物事を捉え、自分の大切なものを奪われる前に取り立てようとした。
一方で、炭治郎や禰豆子は、無いなりに目の前に今ある物に目を向け、「前向き」に物事を捉え、自分や他人の大切なものを2度と失わないように護ろうとした。
これこそ、妓夫太郎が心の中に飼ってる「鬼」の部分で、炭治郎達の「人間」としての心の持ち方の違いなんじゃないかな。
たったこれだけの違いから、どんなに辛くて困難な出来事が起こったとしても、そのときの「正しい気持ちの持ちかた」について、『鬼滅の刃』遊郭編は教えてくれたような気がする。
炭次郎の指がずっと痛々しかった
一言で表す最高